そういえばこの頃ご無沙汰だったな、などと思い立ち、どこか曖昧な心持のまま向かったのは静岡県浜松市旧中区にある「湯風景しおり」である。
とても気に入っている。
ロケーションとしては、果たしてどうだろう。なんというか、大通りからさらに別の大通りに抜けるひどく傾斜のついた細道を上がったところに鎮座しているのだ。しかも平日の昼間だというのに、館内入口付近の駐車場はほぼ満車である。
ファンとしては悲喜交々といったところか。
しかし安心してほしい。多少混んでいたところで安息は揺らがない。
前置きが長くなってしまった。兎に角、館内には食堂やマッサージ、漫画の読める休憩コーナーなど諸々の設備があるものの、そのすべてが私の目的外だ。
偏に入浴だけを目指している。故に手ぶらのままぬるりと自動ドアのセンサーを突っ切る。
さて、まず館内左手には靴箱がある。どうでもいいことだが、此度は平日昼前ということもありあまり混雑していないため、手近に空きがあった。
456番――なかなかどうしてよい番号だ。
という具合に、微に入り細を穿つテンションの高さで、引き抜いたカギを丁寧にポケットへと仕舞い、券売機と挨拶。
思い出せば初来館時より価格が上がった。が、栓なきことこの上ない。
少しの躊躇いもなく支払いを済ませ、発券されたそれをカウンターに提示さえすれば、この夢の安息地への入場許可と、目に痛いほどの黄色い専用タオル(別料金)が貸与される。実に気分が良い。
逸る気持ちを抑え、真っすぐに浴場へと歩を進める。足裏から感じる独特の床質を噛みしめ、威風堂々と暖簾を潜った。
いつも必ずと言っていいほど、私は場内右手のコインロッカーを使用する。別になんの拘りもない。儀式とでも呪いとでも、何とでも言うがよい。
上段。使い勝手がいいからだ。荷物を入れる。衣服を脱ぐ、畳む、仕舞う。順調だ――その時!
「ああ…」
思わず声が出た。私は大きな失敗に、今更(全裸)ながら気づいたというわけである。
時を少し遡ろう。
券売機と挨拶していたあの頃。価格が上がったことへの愚痴を、さも気にしないと大物ぶっていたあの頃だ。
私はそこで、愚かにも百円玉を使い果たしたのだ。釣銭を嫌ったがために。
再度述べるが、実に愚かしい。別に自己嫌悪や卑屈趣味などない。むしろ傲岸不遜寄りな人間であると認識しているが、そんなことはどうでもいい。
自身を愚かと断じたのは、常連(と密かに思っている)の癖にコインロッカーの存在を失念していたことにある。
本施設では、脱衣所がコインロッカータイプであることは既に述べた。
百円玉を入れ、カギを回して引き抜くことで施錠が可能であり、開錠すれば百円玉が返却されるという仕組みだ。
いたずらで大量のロッカーに鍵をかけられ、使用不可にされてしまうことも無く、施設運営側からすれば実に合理的な仕組みであると思う。
しかし、私はこれを忘れ、愚かにも小銭のすっからかんになった財布とあほ面を引っ提げて、猪突猛進の勢いで脱衣所に這入っていったのだ。
温泉の神がいるとしたら、呆れてものも言えないといったところかもしれない。
私は絶望した。
だが。
やはり温泉に――神は居た。
「――!」
声にならない声。絶頂期から谷底まで転落した私を救うものが、控えめに、しかし神々しく居を構えているではないか。
それは――両替機。いままで設置されていなかったはず…。
そそくさと神への感謝と両替を済ませ、遂に温泉内部へ侵入を果たした。
私はかけ湯を使わない。
誤解しないでほしいが、まず初めに全身の汚れを隈なくボディソープで洗い流すためだ。
そしてそれが済んだら、いの一番に露天風呂へと向かう。
迸る熱いパトスさえあれば、室内風呂で体を温めるといった前戯は必要ない。
横スライド式の、2枚のガラスドアを次々と開ける。
言いそびれていたが、今日は3月中旬の少し冬が鳴りを潜めたころだった。
寒い。尋常ではなく寒い。だがこれぞ。
露天エリアに出てすぐ、左右に分かれた石段が存在する。
だが迷わないでほしい。というか寒いので、そんな時間はない。
一目散に左へ下るのだ。
そこには白濁した湯に、視界を濁らす煙。完成された温泉がある。
奥長に続き、途中に橋が架かっていることが特徴的なこの温泉。効能は知らない。
知ればプラシーボ的な何かが得られるだろうか。実にどうでもいいことだ。
さて、そんな奥に長いこの湯。空いているのであれば、手前側での湯浴みを強くお勧めする。
ちょうど湯の始まりなので、かなり熱い。それが気持ちいいから――ではない。
最も気持ちの良い景色、視界、あるいは画角だからだ。
湯内に入ったら、今まさに露天エリアへと下ってきた石段を向くようにして腰掛ける。
本温泉の露天エリアは、雑木林で外界と隔絶されている。それを背にするイメージだ。
思わず吐息が漏れる。陳腐なことを言えば、日常の疲れが吐き出されるような感じ。
体の芯が温まるまで言葉はいらない。何も考える必要はない。
ただぼう、と焦点の定まらない溶けた視界で煙を浴びる。
いくらかそうしていれば、徐々に環境認識が始まる。
先述した通りの浸かり方をすると、右手に露天エリアの出入口、左手に橋、正面に通路が見える。
その通路の奥には植木がある。別段何ともないただの植木である。
「虫の通り道に注意」
植木から生える看板にはこう書いてある。
虫嫌いの私にとって、その忠告は実にありがたいものである。
こうした風景を眺めていると、私は強くノスタルジックな気持ちになる。
故郷を想う日本人の心が刺激されて、何だか懐かしい気持ちがこみあげてくるのだ。
私の故郷は田舎風景でも温泉街でも、ましてや古都でも何でもない。ただ何故だか古き良き日本を思う漠然とした感情が、我ながら意味不明にこみあげてくるのだ。
これを横文字で「ナショナリズム」といってしまうのは余りにも勿体ないのではなかろうか。
言葉を尽くせばいくらでも優れた表現がありそうなものだと思いながら、しかしそれに努めるのは無粋であるような。
少し空を見る。朝から生憎の空模様だった。だが幸いに曇天である。
何の前動作もなく立ち上がる。自分でも驚くほど衝動的に湯を後にした。
冷たい風が体を撫でる。気持ちがいい。
だが私には次なる目的があった。
壺湯である。これがたまらなく好きなのである。
断言しよう。おすすめは向かって右端にある壺だ。
実は露天風呂エリアの最奥にはサウナスペースがあるのだが、その目の前にある壺がこれに当たる。
私は祈るようにして、都合4つの壺湯を左から順に見ていく。
有人・有人・有人――無人。
神よ。
壺湯自体は向かって正面から入る構造にはなっていないので、少し迂回して足を踏み入れる。
先ほどとは打って変わって、透明・適温。実に気分がいい。
またしても露天エリアの出入口を向くようにして壺湯へ浸かる。先の湯が右奥に見える格好だ。
これまた言いそびれていた。実はこの格好では露天風呂エリアの出入口などほとんど見えない。
それはこのエリアのど真ん中に、屋根付き露天風呂が堂々と居を構えるからに他ならない。
先ほど「露天エリアに出てすぐ、左右に分かれた石段が存在する」と述べたが、実は正面に進めばこれに入ることが出来る。
ヒノキ風呂だと思う。材質は詳しく知らない。少し高いところにあるので、湯の循環先が滝のようになっている。詳しくはHPでも何でも見てくれればいい。
湯自体は週替わりだか月替わりだか知らないが、全国の名湯をコンセプトに有名な温泉が用意されている。そこは好ましい限りだ。
しかし総合すると個人的にあまり好みではないので、利用することはほとんどない。
理由は明快で、人気のため人が多く、また湯が浅いのでリラックスしにくい。以上独断と偏見。
そんなことより壺湯である。なぜ私が配置までこだわってこのサウナ入口前壺に浸かるのかという話だ。
それは眼前に植えられた、高さ1~2メートルほどの一本の木。こいつが好きだからである。
高さ1~2メートルってなんだ、と思うかもしれないが、壺湯から見上げることしかないのでよく知らない。
また何の木かも知らない。ただ周囲の雑木林と違い、手入れされていることだけは間違いない。
思い立って、壺湯から少し身を乗り出して覗いてみたが、種類とかそういうのは記載されていなかった。まあどうでもよい。とりあえず学名シオリと勝手に決めた。
今のシオリはほんの少し青葉が芽吹いているに過ぎないが、真夏に訪れてみると青々とした迫真の生命力を感じることが出来る。
そんなシオリ…いやなんかこっぱずかしな。やめようかな。
兎に角夏のコイツはだいぶいい感じなので、去年の夏のことを懐古していた。
たしか8月、夏真っ盛りという頃。
全く同じ姿勢でこの壺湯に浸かっていた。
ふと、眼前の木に気を取られる。
ミンミンゼミが止まっていて、しかし鳴いている様子もない。樹液もなさそうなこの木に何の用があるのか。
だが私が気を取られたのはそんなセミ君ではない。
その枝葉であった。
そもそも幹は大して太くない。人間の腕より二回りくらい太い程度だろう。
そんな木から伸びる枝葉はさらに細かった。
しかしその先に目を奪われてしまう、不思議な気持だった。
あえて言葉にしてみると、銀河を感じた。
改めていうとバカバカしくて笑えるが、本当にそう思ったのだから致し方ない。断じてラリってない。
例えば無数——というほどでもないが、数多に伸びるこの枝葉の先にある青葉がすべて国や星で、そこには生命があって、文化があって、暮らしがあったとしたらどうだろう。
ちっともどうだろう、ではないが。
だが私が受けた感銘はそういう荒唐無稽なもので、それもこれも茹だった頭と身体が成せる業なのかもしれない。
風が吹いて、気持ちが少し現実に引き戻される。
最初に言ったように、本温泉は大通りに程近い。その境界を担うのは雑木林のみである。
そんな環境だから耳を澄ましてみると、車の走り去る音が聞こえる。
風も、そういう往来が惹き起こす恩恵なのだろう。だがこの境界の中では、それすら自然がもたらす恵みのような気がした。
この壺湯では、その境界を担う雑木林を背後に構える姿勢となる。
故に湯に浸かりながら少し肩首を脱力して、天を仰ぐとこちらに覆いかぶさるような枝葉が見える。
それは先に銀河を感じるなどと宣っていたそれとは比べ物にならないくらいの繁衍だ。
あえてなぞらえるなら、銀河どころか宇宙を内包しているようにすら思えてくる。
枝葉の間からは、夏の青空が隙間を埋めるように天高く広がる。
秋季じみた表現だが、実際そのように感じたのだから致し方あるまい。
そんな青空に溶ける枝葉が、時折強い風に揺れる。
それは同時に湯外にある私の顔や腕を撫で、背徳感など露ほども存在しない快感が体を癒す。
風が止む。風が吹く。しばらく風が止む。待つ。待ち焦がれたころに、風が吹く。
温まった体を少しずつ冷え却すものだから、いつまでたっても出れやしない。だがそれがこの上なく幸福なのだ。
温泉愛好の敵、逆上せ。これがいつまでたっても鳴りを潜め、延々と浸かっていられるこの環境。
大波を待ち焦がれているサーファーの気分がわからいでか。ちなみにこれは嘘。
先にも言ったように虫嫌いな私だ。この覆う木々からいつ何時どんな輩が振り落ちて来るか分かったものではない。
だが出たくない。葛藤。
あれ、いつもこんなこと思いながら浸かっていたのだっけ。
そう思ったころには、懐古から現実へ戻ってきていた。
空を見る。青葉はなく、空は曇って少し暗い。
風が冷たいので、熱々の湯が恋しくなってくる。
だが唯一喜ばしいことは、いくら空を眺めていても、虫が降ってきそうな気配など毛ほどもないということだった。
そうしてふと、己が身を任せている湯に目を落とす。
壺湯は常時お湯が足され、底部から抜けていく構造になっているため、少しだけ湯内に流れが出来ているようだ。
それを裏付けるように、どこから入ってしまったか想像もできない異物が巡回していることもある。
そこに小さな黒いものが漂っているのを見つけた――。
気づけば露天風呂エリアを後にし、室内風呂へと戻っていた。