日本酒は、お好きか?
米が、水が、空気が、時が、歴史が、杜氏が、その他関わる全てが生み出す珠玉の一滴、神の水。
そんな日本酒がお好きだろうか?
どうも、日本酒の酒客・酒家・酒仙、あるいは酒仙奴とは私の事。
だが蘊蓄など語っても仕様がない。そんなものいくらでもネットの海に揺蕩っている。
こんなキモイ表現が気にならないくらいには、愛しているぞ日本酒。
金色に降り注ぐ陽の光 漲った田畑に跳ね踊る
https://www.uta-net.com/song/267932/
干からびるまで歩いたら 今日は初っ端から日本酒だ
無論 縮みあがるほど とびきり冷たいやつ
先に断っておくが、これは私の生み出した文章ではない。
これほどまで躍動感に満ち、疾く日本酒を吞みたくなるような天下の名文。私になど到底書けやしない。
ご存じの方もあるかもしれないが、これは竹原ピストル氏の
「あ。っという間はあるさ」という名曲から抜粋している。
このフレーズを聴くたび、たまらなく日本酒が呑みたくなって、たまらなく夏が待ち遠しくなるのだ。
大の夏嫌い・冬好きを拗らせた私が言うのだから間違いない。
想像してみてほしい。真夏の殺人的日差しに蝕まれた肉体に、氷水くらいに冷え切った日本酒を流し込むのだ。
辛口がいい。空きっ腹にドスンと落ちるキレキレの大辛口だ。
冷やし過ぎては米の香りがかき消されるとか、本来のうまみが感じられないとか、この際そんなことはどうだっていい。
この真夏の一杯目だけは、そんな蘊蓄も含蓄もクソ食らえだ。
とりあえずビール?クソ食らえだ。
空きっ腹じゃ酔いが回りやすい?クソ食らえだ。
まずは先付けを一口?どれもこれもクソ食らえだ。
全身に流し込め、日本酒を。体温と熱交換され侵入してくる神の雫を享受しろ。
ああうまい。呑んでなくとも想像するだけでうまい。
吐息に日本酒の気配が纏わりつく。腹ん中が冷たくて、でも熱くて。全身で愉しむ。
お猪口を摘まむ指先が喜ぶ。そんなお猪口もようやく熱に充てられて、焦ったように結露する。
だがその間を与えまいと、徳利から新品の冷酒をなみなみ注いで、結露にはまだ早いのだと頭ごなしにわからせる。
もはや呑むというより吸引するくらいの感覚で、神秘を嚥下する。喉元すらその喜びにしゃくり返っている。
ようやくそのすべての情報を文字通り呑み込む。その頃にはもはや頼んだ記憶すら定かでない刺し盛りが、いつ来たのかもわからない先付けを押し退けるようにして並ぶ。
全身が日本酒で満たされた後、これは相場が決まり切っている。
うまい酒にはうまい肴。
大変申し訳ない。決して軽んじているわけではないのだが、その一口目を先付けに譲り渡すことだけはできない。
なんといっても刺し盛り。しかもブリンブリンの真鯛が、宝石のように煌めいている。
旬はまだこれから?クソ食らえだ。
この威厳すら感じる歯ごたえと、してやられたと白旗を上げたくなる程の肉厚。
これを真夏の日本酒フル充填体に食らわすことが出来る今こそ、真の旬であろう。
ああ。嚙むたびまさに筆舌に尽くしがたいうま味が脳みそを直撃する。
右手に持った箸を置き、意識を集中してこれまた全身で味わう。
だが少しの間お役御免だった左手が、我慢なるものかとお猪口を持ち上げ、私の胃に酒を流し込んできた。
ようやく少しだけ温度の下がった日本酒が、本来の味わいを取り戻したぞと言わんばかりに私へ訴えかける。
お供は土佐鶴の超辛口。芳醇な米の香りが鼻に抜けることなく、全身に染み渡るようにして食材と調和し、一杯目に味わったものとは全く異なる衝撃をもたらす。
なんということだろう。食というものは、日本酒の有無でここまで味わいが変わるものかと。初めてそう感じたあの日の衝撃は色褪せることなく今を生きている。
そういう意味では、空腹の一杯目、そして一口目、私はいつも初心になる。
こんな人間すらいともたやすく解きほどいてしまうのが、神々しさの皮を纏った日本酒の魔力であると言えよう。
さあて。青魚を食らおうか…。
私のこじつけ的旬ではなく、本物の旬である鯵を食らおう。
いいや待て。その駿河湾の栄養と美と威厳をすべて抱き合わせたかのような鯵は余りあるほどに魅力的だ。だが。
だが私はしめ鯖に目が無いのだ。
よりによってしめ?先に刺しを食らえよという気持ちはよーくわかる。そしてそれは正しい。
だが優に1.5合は食らったであろう宵の口ならぬ酔いの口。こんな気持ちのいい頭で考えることに合理性などない。
衝動性のみが私を突き動かし、これまでの逡巡が嘘であったかのようにしめ鯖を醤油に潜らせた。
そこまで認識した頃には、既に肉を噛みしめている。
じんわりと控えめな酸味が、狂おしい程うま味を囲い込んだ鯖の油を引き立たせる。
やや緩めのしめ具合は、酢の物を得意としない私を虜にする程の、神の塩梅。
叫びだしたくなるほどのうまさ、思わず拳を強く握りこむ。
うまいうますぎる。こんな異常者を横目でチラリと覗く大将。ここが行きつけで良かったと安堵する。
「旨いでしょ、うちの魚」
「旨すぎます」
誰一人言葉を発しない静寂のカウンターで、私と大将の声がこの場にいるすべての人間の幸福を代弁する。
このこだわりと美味が漲った空間で、それを確定させるようなやりとりだった。
そもそもこの日は私以外誰もカウンターに座っていなかったけれど、小さいことは気にしない。
「おまち」
待て待て。ついに来てしまったぞ。
卓上で幸せの音がチリチリと踊っている。
刺しとは違った煌めきが、私の目を焦がしてしまうほどに息づいている。
前述の通り、真夏の太陽によって極限まで上げられた体温は、日本酒によって下げられた。
そして刺身とのマリアージュで再度体温は上がり続け、もはやここが限界であると誰もがそう思った時。
満を持して、天ぷらは現れた。
私は天ぷらほど繊細な食べ物を知らないかもしれない。
言うまでもなく、多種多様な食べ方があるのは自明だ。
だが私の言う繊細さとはそれすなわち「鮮度」の事である。
鮮度であればそれこそ刺身に対しての表現の方がしっくりくるだろう。
しかし刺身というのは、どちらかと言えば市場に揚がりしめられた後の取り扱いの方が繊細さを求められ、我々が実際に食す段階――すなわち皿の上に美しく並んだあの状態である――では天ぷらほどの繊細さはないように思う。
つまり繊細さ=鮮度=時間経過という話だ。
これまで語って尽くした刺身においてはもちろん、私が愛してやまない本日の主役「日本酒」でも鮮度はとても重要な要素である。
しかし天ぷらというものは、この両者を置き去りにする繊細さに他ならない。
秒単位というのは大袈裟が過ぎるが、それくらいに刻一刻と味わいが変わってしまう。しかも劣化してしまうというのだから神も相当意地が悪い。
焦り、逸る気持ちで揚げたてをザクリと頬張る。ともすれば大火傷の危険まで孕んだ上での行為。まさに覚悟が必要である。
だがその覚悟の対価はあまりにも大きい。
ああ、衣とはこんなにも香ばしいものだっただろうか、油とはこんなにも香しいものだっただろうかと。
揚げたての天ぷらは、我々日本人の誇りすら呼び起こし、熱くしてくれる力がある。
衣の付け方ひとつ、食材の厚み、揚げ具合。私のような素人が如何に言葉を尽くそうと、ただ弁を弄するに等しい。
だが完成されたその黄金は、誰が見ても一級品とわかる種の光を放っていた。
ではそこまで言うなら、お前の好みの具材は何だと問われるだろう。いや、お願いだから問うてほしい。
先に私は「大の夏嫌い・冬好き」と言ったが、実はこの食材は冬にしか食べることが出来ない。
冷凍など文明の利器を考慮すれば一概には言えぬが、味わいは天と地ほども違う。
今まで夏の話をしてきて突然の切替えで恐縮だが、ぜひ語らせてほしい。
本当にうまい「白子の天ぷら」というやつを。
私がどれほどまでに白子を愛しているかというと、大将に
「白子の季節になったからそろそろ来ると思って準備しておいたよ」
とリップサービスが貰えるくらいには執着している。
他でもない白子にもいくらか食べ方は存在するが、天ぷらに敵うものなどいやしまい。
真冬。凍えそうな体で貪る天ぷら。それだけでも気絶しそうなほどの甘美を備えている。
そこに白子までやってきてしまったらもうおしまいだおしまい。
そこいらで目にするそれの2回りも3回りも大きい、いきつけのパーフェクト白子。
もう頼んでから来るまでソワソワが収まらない。
ああどうしよう。今日は何と食べよう。やっぱ辛口がいいな。濃厚クリーミーをチュッと司牡丹辺りで。たまらん。
いやすっきりも捨てがたいか。磯自慢、悪くない。特本でどうだろう。
そんな優柔不断さを見咎めたかのように、白子降臨。
脳が、目が、唾液分泌腺が、今日一のフル稼働を見せる。
いやはやデカい。一口で食べることが想定されていないサイズ、幸福が過ぎる。
まずは塩を付け…付け…付…デカすぎて塩の小皿に入らねえ、幸福が過ぎる。
丁重に指で一つまみ。塩をかけさせていただく。たまらん。
噛り付く。衣の歯ごたえ。前歯が狂喜乱舞する。
思い切ってグッとさらに噛み込む。
とろり、と。
あまりに危険すぎる熱々のクリームが溶け出す。だが本当に危険なのは、その味わいである。
未だかつて、他所でこんなにも濃厚——こんなにも蕩けだす白子を食べたことが無い。
大抵火が通り過ぎてしまって、中身は少し硬くなってしまっていたり。それもこれも仕入れの鮮度に依る。
すなわちこれほどまでに半熟(便宜上こう表現する——あながち間違いとは思っていない)に仕上がるのは、そこまで火を通さずに食べてもよい新鮮さが根幹にある。
濃い。とにかく濃い。臭みなどなく、芳醇。絶対的に危険な食べ物の味。
毒があると言われても疑うまい。
プリン体という代償があるが、ビール飲みでない私は大丈夫だと高を括っている。
この味わいで満たされた口の中にグッ!
あー、日本酒万歳。