私事

単刀直入に言って、私は雨というものが嫌いである。
明け透けに言えば、私は雨が大嫌いである。

もちろん「嫌い」には明確な理由が存在する。情熱を持った嫌悪であるためだ。

早速話を逸らすが「好きの反対は嫌いではない、無関心だ」という陳腐な諫言を耳にしたことのある人は多いだろう。

これの一体何が陳腐かって、語学的思考を無視して感情論に走っていること――ではない。
それはそれでキモいなり痛いなりという感じで、決して陳腐という格式高い貶し言葉を必要とはしない。

じゃあ何かって、事実上定義された反意語を無視してまで感情に走っているのに、結局は「無関心」という新たな反意語を定義してるところだ。

「反意語」という語学感に異を唱えるわけではないというところが、いかにも感情論者らしい視野狭窄さで嫌になる。

嫌になると言えば、雨の日だろう――話を戻す。

雨の日が嫌いな理由に、傘という前時代的アタッチメントが殊更に関係してくる。

雨が降るのは仕様がない。仕様がないというか、蒸発した水分が雨として降り注がなければ食料が枯渇するなりして死ぬので、そこは認めた上で言っている。

つまり雨そのものというか、雨に対処できていない現状が嫌いと言った風だ。

さて、傘。天から雨風が降り注ぎ翻弄される中、なぜ人類は未だにこんなものを使ってるのだ?と感じたことはないだろうか。

文明の発達速度は凄まじい――らしいが、雨への対処法があまりに停滞していないか?と。
AIをはじめとするシンギュラリティより、雨対策の方が遅れてるってどういうことなんだと。

とは言え私も傘をさす。無論有るだけありがたい、無ければ全濡れだからだ。

だが、正直言って足なり肩なり、そこら中濡れまくることないだろうか。飽くまで軽減、みたいな中途半端さ加減。挙句靴に浸水など日常茶飯事。

しかも荷物として壊滅的に邪魔だ。また風をもろに受ける形状により壊れやすいという最悪の兼ね合い。

荷物云々という点では折り畳みが一役買っているが、その分わんさか濡れる。そして輪をかけて壊れやすい。

とまあ、とりとめもない悪口雑言を吐いた。だがストレス発散が目的ではないので傘の歴史についてちょいと調べてみる。

昭和の歴史は骨の歴史
1965年(昭和40年)にはコンパクト傘が登場。これは従来二段式だった中棒を三段式に改良し、ハンドルを取り払ったタイプ。たたむとハンドバックに難 なく入る小型サイズが女性に受け、たちまち人気商品にのし上がった。また、三段折りのミニ傘もこの頃に登場。同時に中棒や骨のアルミ合金化が一部で進み、 徹底した小型軽量化が図られていった。
一方、同じ頃、男性の間では、ワンタッチで開くジャンプ傘人気が過熱。戦前にも一部で流通し、戦後も輸出用に生産されていたジャンプ傘が、1960年(昭和35年)に国内向けに販売が開始され、数年を経てトレンドとなったのだ。

https://www.jupa.gr.jp/pages/history

…まさかの進歩していないことが裏付けられて終了。

ちなみに雨合羽や長靴を活用するというのは論外である。長靴はまだしも、雨合羽を標準装備品として日常生活に活用するのは無理があろう。というか私は嫌だ。

じゃあ(私のような気質の)人類は、雨から逃れることが出来ないということなのだろう。
革新的なアイデアも何もかも、叡智の集約が今あるこの形なのだろう。

偉そうなことを言っているが、私自身新アイデアというやつを生み出すことが得意な手合いではない。
自分では解決不可能な不愉快さであるからこそ嫌いであるし、諦めが早いのもそういう背景がありそうなものだ。

じゃあこういう時どうするかという話で、冒頭の話が生きてくるというものである。
好きの反対は云々、というアレだ。

故に、敢えて、天邪鬼的に、ということではなく単に私の性格上こうすべきと思ったから言うが。

嫌いなことがどうしようもないなら一つでも好きになれる(嫌いを軽減できる)部分を模索しよう。という話だ。

なんだかそれこそ傘みたいな不完全さがあって趣深くないか?ないか。

さて、雨の良いところ――良いところ――。

無いな。

これが関心がないということなのか?と己の思考回路が感情論者に染まってきたのかとの絶望に襲われたところで、なんとか1つ思いついた。(命拾いしたというものだ)

その思いつきについては、雨そのものというわけではないがご容赦願いたい。

思い返せば私が小学生の時分まで、記憶の旅をせねばなるまい。

それは前日の夜、雨が降ったという日の朝、快晴。
世のルールというものを欠片ほども理解していない癖に、今の私よりもよっぽどかルールに則って生きていたハナタレの朝。

つまり通学路というレールを、学舎に向かうべく早朝より悠々と歩を進めていた日の事だ。

木々が、草花が、路面までもが、雨露を湛えきらきらとしていた。

これ以上表現しようがないのは、今の私が当時の語彙力まで退化しているからかもしれない。
だが同時にそれ以上の表現をしてやる必要もないように思う。

誰しも一度は目にしたことがあるだろうし、何より無粋というものである。

朝露の延長線上に存在しながらも、それとは決定的に異なる世界の演出は間違いなく雨の面目躍如である。

太陽が必要不可欠なのは言うまでもないが、その輝きは雨の恩恵なのだと、誰しもが感じるだろう。

傘など必要としない。雨に濡れることもない。でも雨を感じる。

実にお得だ。そう考えると、やはり私が嫌いなのは雨そのものではなく、それに対処できていない己の不甲斐なさを人類の叡智に投影しているに過ぎず、それを歴史に転嫁して諦めているに過ぎないように思う。

つまり私という人間が少しでも大きくなるためには、こういったものを受け入れ、嫌いなものから好きを探すに至るプロセスについて、無関心にならないことが肝要に思われる。

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