環境の奴隷

私事

時間が無え。

自分の所為でも他人の所為でもなんでもいいが、とにかく時間が無え!

こんな日、車をブン吹かして目的地に急ぐ。
そしたら「俺」の目の前にチンタラ走ってやがる軽がいやがった。

邪魔だ、そこを曲がれ、曲がって俺の進む先から消えやがれ。

と念じても消えない。時間に余裕のある老人は、その老化によりやむを得ず衰えた運転技術をカバーするかのように、時間をかけて道を進む。

おいおい、おいおい。
来やがった。

“止まれ”の標識だ。

俺は免許取り立ての頃、こいつを見逃して切符を切られたことがある。
まだ免許取って1週間頃の話だ。後ろをぴったりとつけられていたらしい。やり方が汚えと今でも思うさ。

だがこういう苦い経験ってのは、糧にしないと苦いままどころか無味になる。苦さを忘れてもっと苦味を味わうことになる。だから教訓にする。

話が逸れたが、つまりいくら急いでようが“止まれ”だけは止まらなくっちゃならないって話だ。

間に間に目前の軽はきっちりかっきり一旦停止した後、俺が目指す進行方向へと悠々自適に走り去っていく。

俺は目の前の軽に倣うまでもなく、ピタリと止まった。その時だ、左を見ろ。

別の車両が出てきやがった。奇しくもこいつも軽、こいつも老人だ。しかも左折(俺の目指す進行方向だ)と来やがる。

俺がこのまま止まってりゃ、難なく入れる。

しかし先に目の前の軽が交差点を通過した分、交差点は誰でも通れるようにスペースが空いてるってわけだ。つまりそこにさっと入りこめば、目の前の癌を一つ増やさなくて済む。

と、ここで俺は思考する。

今まさに、俺の感情、それに基づく行動、思考は“時間がない”という状態に支配されていると言っても過言ではない。

そう思うと、クソ腹立ってきた。
いや滑稽というべきか。

だから入れてやった。親切を気取ってみた。時間が有ろうが無かろうが関係あるか。
親切気取りの運転は嫌いじゃねえ。寧ろかなり気分がいい。
まぁ礼をされないと腹立つんだが、それはさておきだ。

入れてやった老人はにこやかに手を上げて左折。悪くねえ。
なんだかさっきまで焦っていたのが嘘のようだ。親切ドーパミンが出て気持ちよくなってやがる。

そして入れてやった軽も悠々と俺が目指す先を進んでゆく。

さあやっと俺の番だ。

と、こういうときに限って大抵面倒なことが起きる。

歩行者とチャリンコだ。しかも律儀に待ってやがる。道交法的にはお前らを優先させないとしょっぴかれるのは俺だ。だからさっさと渡ってくれ。

しかし歩行者からしてみれば自分の身の安全が第一だ。だから本当に車が譲ってくれるか確認するまで渡り始めないのが常道ってもんだろう。

それをわかっててもイライラしちまうもんだよな。でもな、これも環境に支配されていると言える。

俺の後方に車はいねえ。だから5分でも10分でも待ってやるような心持ちで、どうぞのジェスチャーだ。

歩行者は安心して渡る。自転車も同様だ。

さて、またもドーパミン出たところで、やっと交差点を渡りきろうじゃないか。

すでに最初の軽の姿なんぞ見えやしない。
左折で入ってきた軽の背中も遥か先だ。

まぁこんなのも悪くはねえだろうと思ったその時、交差点の左から車が来やがった。
この交差点は両者“止まれ”だ。故に先に待っていた俺が、先に交差点を通過するのが当然の流れだ。

しかし、もう環境の奴隷から開放された俺にとって、当然の流れだとか、長いこと待ってるからどうだとか、そんなことは全然どうでも良くなっていた。

俺が譲ってやりてえから譲るんだ。

親切にして気持ちよくなるため。

もはや相手のためですらなくなっている。

これが己の意思で生きるってことだ。よーく覚えときやがれ。

タイトルとURLをコピーしました